1月7日は悲しい日となりました。この日パリで起こったシャルリ・エブド襲撃事件は言論の自由に対する攻撃であると同時に、イスラム教徒に対する武力攻撃を助長するものとなりました。さらに、いろいろな意見がありますが、言論の自由に対する批判を呼び起こすものともなりました。

西洋社会における言論の自由の位置づけは、近年とても複雑なものになっています。それは表向きには今もなお重要な権利として尊重されていますが、その一方で、言論の自由は脅威としても見なされています。政治家たちはセキュリティを向上させるためだとしてその統制に意欲を見せています。最近あったイギリスのキャメロン首相の発言はその悪い見本と言えるでしょう。彼は、政府当局が内容を確認できない通信はあってはならないという見解を示したのです。これは要するに通信の暗号化を制限するということです。このようなことは、非デジタルのメタファーで説明するとわかりやすいでしょう。つまり、これはオートバイに乗る際に、顔を隠して人物の特定を困難にするヘルメットの着用を禁止するのと同じだということです。

フランスのフランソワ・オランド大統領もかつて同じようなことを考え、インターネットプロバイダに対し、自社サービスにおけるユーザのコンテンツについて責任を負わせる内容の法案を提出しました。これはFacebookやTwitterといった企業にすべての通信を監視させ、テロの実行について語られている場合はすぐパリ当局に連絡させるというものです。これはキャメロン首相の発言よりもひどいものです。なぜなら、これは実質、企業に警察の役割を果たさせるものだからです。しかし、それならばテロリストに電話回線の使用が許可されたことがわかった場合も、電話会社は責任を負うべきなのでしょうか?また、郵便サービスによって郵便物が送られた場合も同様でしょうか?もちろんオランド大統領は電話や郵便物については対象としていません。そんなことをすれば、この考えが常軌を逸したものであるということがわかってしまうからです。あらゆるものは、犯罪目的で悪用される可能性があります。しかし、各サービスの提供者にその利用について責任をとらせるというのは愚の骨頂であるとしか言いようがなく、そのようなことをすれば社会や経済全体にもダメージを与えることになるのです。

ここで重要なのは、本来言論の自由というものはシャルリ・エブドが利用しているよりもずっと広い意味を持つ概念です。つまり、検閲を受けることのない通信の自由ということです。さらに、言論の自由には別の側面が存在します。すべての人には、意思伝達を行う相手やメッセージを送る相手を選ぶ権利があるということです。これは単に秘密やプライバシーの問題ではありません。自分の意見が後に第三者によって悪用されて自分の不利となることを心配せずに自由に意見交換できるということを意味しているのです。言論の自由のこのような側面は、キャメロン首相の理想とする社会にはもちろん存在しません。

ですから、キャメロン首相もオランド大統領も間違っており、また皆さんはシャルリではないのです!広く拡大した「私はシャルリ」運動が、言論の自由と偽善の両方を象徴するものとなったのは嘆かわしいことです。パリでシャルリ・エブドへの支持を表明するデモ行進が行われたとき、あなたは本当に何もおかしさを感じませんでしたか?そしてそのすぐ後に、あなた自身が通信の自由を批判したりしていませんか?

国のリーダーになるにも、セキュリティと自由のバランスを保つにも、そこには勇敢さが必要です。今、本当に必要なのは、ベンジャミン・フランクリンのような、勇気あるリーダーなのです。彼の言葉を引用しましょう。
「言論の自由は自由な政府の最も重要な柱である。言論の自由が奪われれば、自由な社会は消滅する。そして、暴政は、その破滅のもとに生まれるのである」
「一時的な安全を得るために本質的な自由を放棄する人は、自由も安全も得る資格はない」

安全なネットサーフィンを

Micke

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